東京都立雪谷高校同窓会・螢友会のホームページ/学校創立1913年(大正2年)4月

11期:根岸 武香

母校の活躍に昔日を思いおこして 1960(昭35)年卒

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写真説明:先頭が私、槌屋君、海老澤君の順、当時のユニホームは白、胸のマークはアルファベットの筆記体で「Yukigaya」色は紺でした。

近年の野球部の活躍ぶりには、毎年こころを躍らせています。
85回大会の甲子園出場はまさに驚天動地の思いでしたが、91回大会の準優勝、92回と93回大会は敗れたとは言え、92回は優勝して本大会で活躍し、93回は決勝まで行った強豪の関東一高に0-2、2-3と予選で最も善戦した実力は、もう何処へ行っても一流校として誇れるもので、相原監督をはじめ学校関係者のご努力に敬意を表します。

私は昭和35年卒業(11期)のOBですが、今年70歳を迎え、身辺整理を少しづつやろうか、などと古い写真の整理などを始めましたら、なつかしい一枚が出てきましたので、何かの参考にでもなればと思い駄文とともにお送りした次第です。

私もかつて39回、40回、41回の3大会に雪谷高校の野球部員として東京都大会に出場しました。
当時の野球部は部員も少なく、昭和33年(40回)にようやく25人を越えて、これで紅白戦ができると喜んだものでした。
写真は40回大会の神宮球場での入場式のものです。
このときは予選球場のくじ運がよく、初戦から神宮球場での試合でしたが、小金井工業との対戦は10m近い風の中、乱打戦の末に敗れてしまい、球場の広さだけが印象に残った試合でした。

しかしこの年の本大会は様々な点で思い出深い大会でした。
先ずは40回の記念大会として一県一校の出場となり、まだ日本に復帰していなかった沖縄からも首里高校が出場しました。

当時は本土校との力の差が心配されて、ゲームになるのか?といった声もありましたが、首里高校は福井県代表の敦賀高校に0-3で敗れたものの、そのさわやかな健闘ぶりは甲子園全体を味方につけて帰っていきました。

敗れた選手たちは球場を去るとき、各々持っていた袋にダッグアウト前の土を詰めて持ちかえったのですが、アメリカ管理下の沖縄へ入国する際に検閲にかかり、無情にもそれらは海へ捨てられてしまったのです。

後日、その話を伝え聞いた日本航空の客室乗務員の女性たちがいたく同情して、木の箱に綿を敷き詰め、そこに甲子園球場を上から見た形で各ポジションに甲子園の石を置き、土の代わりに送ったということです。

この話は報道機関で美談として伝えられ大きな話題になりましたが、負けてベンチを去る選手たちが甲子園の土を持ち帰るようになったのは、これがきっかけではなかったでしょうか。

試合でも未だに記憶にも記録にも残る好試合がありました。
準々決勝の徳島商業・坂東投手と魚津高校・村椿投手の投手戦でした。
速球を武器にした坂東と巧みな投球術を武器にした村椿は延長18回までともに譲らず、バックもよく守って0-0、翌日再試合になりました。

この試合をちょうど合宿練習で体育館に居た私たちは、ラジオから流れる熱戦に耳を傾けていました。
結局翌日の再試合は3-1で剛腕の坂東が投げ勝ち、その後決勝戦までいきましたが、すべての試合で完投した坂東は、最後に力尽き準優勝に終わりました。

しかしこの大会で坂東投手が得た奪三振の数は大会新記録となり、おそらく未だに破られていないのではないでしょうか。

戦後十数年しかたたず、まだ木造校舎で新幹線の走る場所には品鶴線という貨物列車が通っていた頃の39回・40回・41回大会も私たちには懐かしい青春でした。

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