東京都立雪谷高校同窓会・螢友会のホームページ/学校創立1913年(大正2年)4月

100周年記念誌通信第5号

YUKIGAYA’S CENTENNIAL(2012/05/14)

第5号は、太平洋戦争で満足に勉強をできない中、青春時代を過ごされた私たちの先輩の経験をまとめてみようと思う。

昭和21年に東京都立雪谷高等女学校と改称するが、その前は東京都立大森家政女学校であった。
この時代はだんだん戦局が悪くなる中で、農業の時間は、近隣の農家の方の指導で、学校の裏に畑を耕し、校内から桶で肥料を運び、新鮮な野菜を収穫し、おいしく味わったという。

当時の校舎と校庭は、現在の大田区立雪谷中学校にあり、呑川が近くにあり、雨の多い日には河川が氾濫を起こしたりで、けっして環境的には良いとはいえないが、白亜の木造校舎は、人々の話題に上り、当時は雪が谷大塚方面から歩いてくる人々には、当時の高等女学校としては瀟洒な佇まいを記憶していらっしゃる方も多いという。

昭和20年3月10日は東京大空襲のあった日として有名だが、ここ雪谷の地はそれから遅れること、5月24日に城南大空襲を経験した。この空襲によってモダンな校舎も焼失。女子校のシンボルであるお作法教室、ミシン等色々な教材と大事なものを失った。

新しい校舎ができる間、調布大塚国民学校、東調布第一国民学校の校舎に間借りして、1~2年生は午前中授業、3~4年生(上級生)は午後授業行った。当時小学校も疎開する生徒が多く、通学してくる生徒数も少なかったので、空き教室を借りることができたという。当時の大森家政女学校の生徒達は、ABCの3クラス(1クラス45人~50人)であった。

昭和18年7月1日、東京都制施行により、東京都立大森高等家政学校と改称。夏休みの臨海施設への不参加者は「鬼足袋」(株)工場へ航空服縫製の勤労奉仕に参加させられたという。また、冬休みは大森郵便局の内勤事務の勤労奉仕に参加したという。

戦争の形勢が悪くなる中、労働力のひっ迫により学徒は労働力の供給源とみなされ、学徒戦時動員体制確立要綱が66月に閣議決定される。さらに学徒報国隊の待機姿勢が強化され、防空訓練・救護訓練の徹底がはかられた。

9月にイタリアが遂に無条件降伏するにいたると、政府は「教育に関する戦時非常措置法策」を閣議決定し、教育の一環としての勤労動員を強化した。
即ち、在学期間中一年の三分の一が勤労作業とされた。初等を迎えた雨の一日、明治神宮外苑では出陣学徒の壮行会が行われたのはこの時期である。
 
19年4月、時局は遂に「学徒出動令」となり、そのため中学校・女学校も年間動員の対象となった。
19年春から4年生は東京計器・富士航空計器・三国商工にクラス毎に分かれて勤労動員をした。
やがて半年後には、3年生が明電舎・大同工業・高砂鉄工所に動員されることになり、羽田に近い穴守稲荷の、大同工業では戦車のチェーンを製作していたという。

動員先での楽しみは、週3回国語の先生がお見えになられ、昼ご飯の後の昼休み時間内に国語の授業をして下さった時は、本当に嬉しく感じたそうだ。ここが空襲されると、次に品川電気株式会社に学徒動員で行ったそうだ。品川電気は当時石川台駅の近くにあり、真空管を製作していたという。

家も焼かれた生徒の中には、品川電気の持つ千束の寄宿舎に住み込み、石川町の品川電気まで歩いて通ったという。この話を聞かせて下さった小笠原千種さんも、同級生の三井さん、森川さんとともに品川電気に寄宿したという。この寄宿舎には、沖縄出身の逓信隊の方々も寄宿していたという。当時の学徒動員先の品川の明電舎は、やはり空襲で消失したという。

昭和20年終戦を迎え、疎開先から生徒や生徒の家族が戻り、ようやく学校が再開した。9月から再開したといっても校舎は焼失しており、東調布第一国民学校での再興であった。

昭和21年から現在の雪谷高校の地で、校舎作りが始まるが、戦中を疎開先や学徒動員に駆り出された時代の生徒達には、新校舎での授業を受けることはできなかった。

昭和21年都立大森家政女学校を卒業する生徒達には、新制都立雪谷高等女学校に進級する道が選べたという。家政女学校は4年制だが、高等女学校は5年制のため、あと1年勉強し、5年制の都立雪谷高等女学校に進級した。高等女学校に進んだ生徒数は3クラスあったうちで42~43人くらいであったという。

昭和22年3月まだ新校舎に窓ガラス等は入っていなかったが、せめて卒業式だけは、新校舎でという計らいで、校舎の屋根と梁しかない校舎で、自分の机・椅子を小学校から運んで卒業式に臨んだ。式後机・椅子はそのまま新校舎に残し、慣れ親しんだ東調布第一国民小学校に戻り、謝恩会を実施したという。
謝恩会といっても質素なもので、先生と保護者だけの物資のない時代の心だけの会であったという。

4月入学生からは新校舎で入学式が挙行されたが、授業が本格的に新校舎で実施されるようになったのは6月10日で、それを記念して本校の開校記念日と決められた。

戦争によって、疎開や学徒動員などを強いられたこの世代は、一番辛い経験をしたことだろう。
しかし、青春時代に一番受難な経験をした仲間の結束は強く、家政女学校当時の3クラスは今でも連絡し合い、健康な者は集いの会を開いている。

雪谷高校の前身の都立大森家政女学校と新制都立雪谷高等女学校の狭間の生徒達の苦労は、今も女子生徒達に無言の伝統を伝えていると思う。その後の新制雪谷高等女学校からさらに新制雪谷高等学校で青春時代を過ごした方々に十二分に受け継がれ、現在がある。

100周年実行委員会

昭和22年3月都立雪谷高等女学校卒業 (平成24年4月9日・30日に小笠原千種様にインタビューと「Free Talk あのころの歩み」小笠原千種様の手記より抜粋)

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