「10月 阪本文男展 没後28年の新たなメッセージ」に伺って

10月に開催された阪本先生個展を来年の「けいゆう」でみなさんにお知らせしたいと、実行委員の15期村口顕一郎さん、17期小春さんに、27期の中川善史さんがインタビューしてくださいました。
「けいゆう」では紙面の関係上全文を掲載できませんのでホームページで全文をお知らせいたします。

 東京・飯田橋駅にほど近い小道の奥にある、小さいけれど感じのよいカフェ・ギャラリー「神楽坂パルスギャラリー」、ここで2014年10月15日から20日まで、「阪本文男展 没後28年の新たなメッセージ」が開かれました。
1959年(昭和34年)から1984年(昭和59年)まで、雪谷高校で美術教諭として教鞭を執られ、多くの生徒を指導された故・阪本文男先生の回顧展です。先生は、モダンアート協会会員として旺盛な創作活動を晩年まで続けられた画家でもありました。
入り口横には、ハンサムだった先生のお写真と経歴、そして雪高の卒業生から贈られた花、奥の小部屋には、阪本先生の繊細でシュールレアリズムに通じるような大小の作品が並び、中央のテーブルには先生が装丁を担当された高橋のぶ子、倉橋由美子、河野多恵子等々の作家の本が並べられています。
この個展の企画は、15期、17期、そして29期の有志の方々、さらにパルスギャラリーの田中さん、先生のご長男・阪本透さんによって推進されてきました。
今回は、メンバーの中の15期・村口顕一郎さんと17期・小春さんにカフェ・スペースでお話を伺うことができました。やはり、先生の作品に囲まれながら。

村口さんは建築家として、また小春さんは版画家として活躍されていますが、実はお二人が阪本先生の個展を開くのは今回が二回目です。第一回は2011年のことでした。
きっかけは、
「伊勢丹で開いた私の個展に、阪本先生の奥様がいらして下さったんです」(小春さん)
話をしているうちに、奥様が先生の作品が誰にも見られずしまい込まれているのを悲しんでいる、と知ります。
「絵は、どうしても年月が経つと、痛んだりシミや汚れが付いたりして劣化してしまうんです」
同じ創作家として、その悩みがよくわかる小春さんは、
「絶対になんとかします、って言ってしまったんです。具体的にどうするかもわからないのに」
そこで相談を持ちかけた相手が村口さん。村口さんは、設計に関わっていたこのパルスギャラリーのオーナーに、
「設計料いらないから、個展やらせてよって持ちかけたんですよ。まあ、結局もらいましたが(笑)」
「個展って、お金の面とか結構大変なんですよね」(小春さん)
「見に来た方に買って持っていただくことによって、それぞれの手元で先生の作品が大切に残っていくように、と考えたんです」(村口さん)

このお二人は、期から見て、村口さんが高校三年だった時、小春さんが一年だったことになりますが、在学中はお互いのことは全然知りませんでした。
芸大を志望していた小春さんが三年だったある日、絵を描きに上野動物園に行くと、そこでやはり絵を描いている人がいました。
「絵のことばかり考えているから、そういう人がいると思わず覗き込んじゃうんですよ」(小春さん)
二人が会話をしているうちに、偶然にも、その男性が雪高の卒業生だとわかり、
「びっくりしました。でも、雪高だって言うだけで、すごく安心感があったのです」(小春さん)

当時の村口さんは、美大のインテリア科に在学中。
「もともと建築の方へ進みたいと思っていたんです。でも、高校時代はバスケばかりやっていましたし、物理や数学などの理数系が苦手なんですよ」
悩んだ村口さんが相談したのが、一年と三年の時に担任を受け持ってもらった阪本先生でした。
「お前、美術はできるじゃないか。美大のインテリアの方へいってみたらどうだ、と言われて武蔵美に進んだんです」
当時は建築家で美術畑出身は少なかったようですが、そんな建築家としての村口さんについて小春さんは、
「すごくセンスがある。なんか、生活感をかんじさせず、でも、その人の生活スタイルにあった設計をしてくれそう」
実は、小春さんの自宅の改装を村口さんに依頼したのだそうです。
「一軒の家で、ギャラリーと生活の場を往復している感じなんです」
「それは根本的には彼女の生活スタイルの感覚の中から出てきているものだと思います。でもね、僕はハードルが高いほど燃えるタイプなんですよ」
と村口さん。

現在、アーティストとして活動する小春さんだが、本格的に始めたのは50歳になってからだそうです。それまではやはりアートの分野で仕事をしておられるご主人から、主婦業に専念して欲しいと言われ、「芸大の大学院まで出たんですけれど」一切、創作活動は封じていたそうです。
それが、ある年「いろいろと行き詰まりを感じて」ニューヨークに行くことを決意します。
「画学校の水彩科に入ったんですけれど、全然描けませんでした。自分は描けるはずだという思いがプレッシャーになっていたのかもしれない」
そこで迷った挙げ句に版画の方へ進んでみると、「面白いように創作できるように」なり現在の活動に繋がっていきます。
「今は、年に何ヶ月かアメリカに行って集中的に創作します。あちらは版画の設備のあるスタジオも安いですし、生活に巻き込まれずに専念できます。行くと100枚200枚と作ってしまいます」
上海の「科学と芸術展」でブースを与えられ、彼の地に渡って創作活動を行ったこともある小春さんには、そういうスタイルが似合っているのでしょうか。

「阪本先生は後ろ姿で引っ張っていってくれるタイプの先生でした」
と、お二人とも口を揃えて言う。
「美術準備室で絵を描いている先生の背中、また背中越しに見える絵、それに多くを教えてもらいました。」
小春さんは美術部員だったが、先生に『どんなことを考えながら描いているんですか』と聞くと『何も考えてなんかいないよ』と答えられたのが印象に残っているそうです。
「でもね、先生と口を聞いたのって数えるほどしかないんです」
そんなお二人が、今こうして先生の個展のために奔走していると言うことは、さぞやすごい牽引力の背中だったのでしょう。

「先生の作品は、まだまだたくさんあります。時間と共に劣化も進んでいきます」
少しでも多くの先生の作品をよい状態で残したいと考えているお二人には、
「夢があるんです」
笑いながら村口さんがテーブルの上に出してきたのは、厚紙で作ったひとつの建築模型でした。地上二階ロフト付き、地下一階の別荘風の家。これを小春さんの小淵沢にある土地に建てるという建築構想です。
「地下に先生の作品の収蔵スペースを作る。地上はギャラリーとか、それから宿泊できる部屋を作りたい。そこで雪谷の人達が集まったり輪を広げたりする拠点に出来ればいいと思うんです」
資金や運営など、まだまだ課題は多いようですが、実現できれば素敵です。この小文をお読みになっている方の中にも、興味を持たれる方がいらっしゃるのではないでしょうか。

お二人のお話をうかがっている間にも、ギャラリーには次々と人が訪れていました。阪本先生がいかに慕われていたかがわかるような気がします。
展示作品の中に「雪高生」と題された、二枚のきれいな色のドローイング作品がありました。どちらも女子が制服姿で少し斜めを向いた座像です。先生が
「おい、ちょっとモデルになってくれないか」
とでも、おっしゃったのでしょうか。雪高に降り注ぐ日差しの暖かさが感じられるような作品でした。

全文は以上です。
ここで、村口さんからのお願いです。

  1. 2年後の30周年回顧展賛同者、協力者を募集しております。
  2. 阪本文男表紙絵朝日ジャーナル1964年10月4日号、1973年6月1日号、1974年4月12日号お持ちの方、いらっしゃいましたらご連絡をお願いいたします。
  3. 阪本先生の出生地である港区に先生の絵を持っていただきたいと考えております。区でお知り合いの方いらっしゃいましたらご連絡をお願いいたします。

以上3点御協力いただける方は螢友会ホームページの「螢友会への連絡」から
ご連絡をお願いいたします