YUKIGAYA’S CENTENNIAL(2011/03/27)

本校の歴史を調べていると、高等家政女学校や高等女学校という制度が気にかかる。
一体、高等女学校とは何を目的とした教育方針が立てられていたのだろうか。
また第二次世界大戦(太平洋戦争によって学制改革されるが、どのように変わったのであろうか。
昔から現在も女子生徒に絶大な人気のある雪谷高校。
かつて『城南の学習院』といわれたこともあったそうだ。本校のルーツにもう一度迫る。

1891年(明治24年)「中学法令」の改正によって高等女学校は尋常中学校(当時)の一種とされ、女子中等教育機関として法制上の明文化が行われた。1895(明治28年)には「高等女学校規定」を制定し、その中で就業年限を6年、入学資格を「修業年限4年の尋常小学校を卒業した者」と定めた。

その後「高等女学校令」は度々改定され、1908年(明治41年)には、修業年限4年または5年、入学資格を「12歳以上で尋常小学校卒」とした。これによって修業年限の点から中学校よりも一段低く設定されていた状態から、ほぼ同等の教育機関に変わった。男子の旧制中学校(大学予科)に代替する「高等教育機関」としての役割を持つようになった。
各地で高等女学校の整備が急速に進んだのもこの時期である。

また、1911年(明治43年)には実科のみの高等女学校を実科高等女学校と定めた。
この時期、男子教育においては「実科中学校」が存在し、「実科高等女学校」はこれに対応する女子教育機関とされるが、教育目的については家政学(現在の家庭科の内容に近い)を中心とした「家庭婦人としての高等女学校に対し、実科高等女学校は高等小学校との付設を認め、女子中等教育の普及の道を広げた。大正時代になると、それまで道府県に限定されていた公立の高等女学校の設置を市町村学校組合においても許可することとし、女子教育に関する意識はさらに高まった。

高等女学校は太平洋戦争を機に一変する。1943年(昭和18年)に「中学校令」が公布。同時に制定された「高等女学校規程」で、就業年数4年を上限とし、「補習科過程」の廃止、「実科高等女学校」の名称を廃止し、高等女学校に一本化し、修業年限3年の「夜間高等女学校」の設置も認めた。

終戦後、連合軍司令部の“民主化政策”に従って定められた学校教育法のもとで、高等女学校は中学校とともに新制の高等学校へ転換され、多くは共学とされた。
以下に昭和21年度における都立高等女学校の統廃合と、実業学校から高等学校への転換を示す一覧表を掲げよう。

100周年実行委員会

資料
昭和21年度における都立高等女学校の統廃合及び戦後・実業学校から高等女学校に変更した都立学校の一覧表⇒PDF版