本校の歴史を振り返ったとき、荏原郡や調布村という地名に突き当たる。元来荏原郡は武蔵の国の郡名であり、大田・品川は勿論、世田谷・目黒・港・千代田区の一部にまで及んでいた。

また調布村も目に付く。関東大震災後東京では郊外地の都市計画が進められ、「田園都市」「学園都市」が誕生してくる。荏原郡では、洗足池周辺をはじめ、学園都市作りが企画ざれた。
このような政策と地元の男女青年団などの尽力によって、公立の学校が誕生したのである。

明治22年の町村制施行で荏原郡は品川・大森・羽田・大井・大崎の5町と調布村はじめ14村が統合され、さらに昭和3年に町制が施行され東調布と改称、さらに昭和7年の東京345区制の施行で荏原郡は廃止され、品川・目黒・荏原・大森・蒲田・世田谷の6区が成立したのである。

調布村立ではじまった雪谷高校の歴史は既述のように町制や35区制の施行でその都度名称を上記のように若干づつ変えてきたが昭和9年には4回目の名称変更で「東京市大森区東調布実科女学校」と称した。

しかし、制度上では依然として創立時の実業補習学校だったわけであるがこれは本校にとって画期的な変化であった。従来本校の周年算定の基礎はここにあったのである。

昭和10年10月01日の「東京市立東調布高等家政女学校」を持ってして創立と考える。
「実業学校だった高等家政女学校から普通科の高等女学校へ、そしてようやく高等学校へと変身した。」となれば大正3年から昭和10年までの28年間は周年算定されなかったかもしれない。

荏原郡の名や、東調布村の名を冠し東京都の文教の地に設立された実業補習学校はあと3年に100周年である事実を突きつけ私達雪谷関係者にもう一度歴史を辿り、明日の未来の百年を考えよと叱咤激励してくれているとしか思えないのである。

100周年実行委員会

参考文献「大田区誌」「70周年記念誌雪澄む」都立学校沿革「平成2都教育員会」