園田晴男先生を偲んで

園田先生は昨年、平成22年(2010年)に、お亡くなりになりました。謹んで、お悔み申上げますと共に、ご冥福をお祈りいたします。

先生は、「東京オリンピック」の昭和39年(1964年)から昭和50年(1975年)まで11年間、英語科の教師として、雪谷高校に在籍しておられました。英語の重要性と読解力の必要性について、授業を進められ、とても穏やかなお人柄だった印象でした。

我々(19期卒)はその1年後の昭和40年(1965年)に入学いたしました。先生は、私が3年の時の3年1組の担当先生でした。当時、3年1組は文科系大学進学のクラスで、他のクラスより、英語の授業が2時間多い事から『英八』クラスと、呼んでいました。

3年1組の皆さん、元気してますか?
『Young Men and Women who gave up Mathematics』という題名を付けたガリ版の3年1組の卒業文集『 「数学」を諦めた仲間たち 』の巻頭言の中で先生は、以下のお言葉を残されております。

卒業を前に、君たちに  担任 園田晴男
ゲーテは「外国語を学ぶことは一つの未知の世界を発見することだ」と言ったが、高校3年間の勉強で、諸君はそれぞれの新大陸を発見し、開拓したであろうか。何も大学受験のためばかりではなくても、英語の勉強はそれ自体価値があり、楽しいものである。狭い4帖半の書斎で、ラジオや英字雑誌等で何千マイルも離れた欧米の事情を生に見聞きできるのはすばらしい事ではないか。更に外国語の学習は、頭脳を柔軟に感情を冷静にさせる。余り主観におぼれて、誤記をしたり、逆に文法の理屈をこねまわして身動きがとれなくなる事を経験する事がある。言語の学習は、無意識に行われる限り技術であるが、相互のコミュニケーションの内容までたちいると知識や思想や教養を必要とする。科学の発達は私たちを宇宙時代に突入させようとしている。そのまえに何か語学を学ぶことによって、新しい宇宙を見つけたらどうだろうか。人生は一度しかないんだ。

当然の事ながら、「英語勉強」の大切さが書かれております。
また、3年1組の同級生たちの文章を読んでみますと、恥ずかしいくらい、若かりし当時の「青春の思い出」が、甦ってきます。人生60年を越えた我々にとって、高校生活の3年間は、青臭くもあり、青春の貴重な時空間』だったと思います。

ところで、今日現在の平成の高校生たちはどうなのか、解かりませんが、私はというと、当時の雪谷高校における「三無主義」(無気力・無責任・無関心)にかなり怒っていたようです。
高校時代については、皆さんにも、それぞれの想いがあると思います。如何でしょうか?

さて、そうやって卒業した1968年の「日本」を覚えておりますか?
その年は、日本において、大きな転換期だったと思います。
1968年の日本は、高度経済成長の著しい発展の中で、ドイツを抜き、アメリカに次ぎ、GNP2位になりました。そして、三波春夫の『こんにちは~~ こんにちは~~ ・・・・・』の歌声とともに、初めてアジアで開かれる、1970年の「大阪万博」に向けて、世の中、お祭り気分になっていました。

が、しかし、その裏では、「沖縄の長期米軍基地化」の問題や、「ベトナム戦争」、「大学闘争」、「日米安保条約反対」等々、「豊かな日本」の繁栄と政治の陰の中で、どれだけの不満や不安、そして多くの犠牲が存在していたことでしょう。やがて万博が開かれ、沖縄が返還される中、一大潮流を巻き起こした社会闘争は下火となってしまいました。

それから40年、まだ沖縄は何ら変わってはいません。
本当に我々の日本は、現在まで豊かだったのでしょうか。
「豊かさ」に被われ続けられた「日本」は今、あちこちで綻びが露呈しているような気がしてなりません。
原子力発電も昭和38年(1963年)10月から始まり、福島原発も40年の月日が過ぎました。

そして、今日の災害に至っております。
『立ち上がれ日本!!!』『立つんだ東北!!!』『がんばれ日本!!!』の声が飛び交う中で、近将来への不安を残したまま、「豊かな日本国民の幸せ」のぬるま湯の中に浸っている自分は、「東日本大地震大津波震災」から立ち上がる日本の姿を見届けると共に、当時、聞き流すだけでいい「Speed Learning」があれば、もっと英語に興味が湧き、園田先生の授業が楽しかったのではないかと、昨年亡くなられた園田先生を偲んで、こんなことをあれこれと思ってしまいました。